いまさらながらの自己紹介
土屋 聡
いまさらながらに自己紹介をしようと思ったのは、もったいなかったからで
す。今回の出会い(※喜納昌吉&チャンプルーズ王城寺原コンサート実行委員
会)を、今回限りにしちゃなんねぇ、そう思ったからです。まだよく分からない
「次回」でも、あちらこちらの「次回」でも、「ああ、あの土屋ね」って具合
に、会えるといいな。そんなわけで、自己紹介です。(プライバシーの暴露で
す。)
私は、土屋聡(つちやさとし)です。小学校の教員をして、身銭を稼いでいま
すが、本当は、もっと違うことをしたいと思っています。
あからさまな差別がありました:夕張
生まれは、北海道の夕張市です。炭鉱生まれの炭鉱育ち。閉山が相次ぐ中で、
思春期を過ごしました。炭鉱城下町の夕張では、「社員」「鉱員」そして「下請
け」の差別がありました。住む町も住宅の佇まいも、違いました。あまりお風呂
に入れない友達、顔中大火傷の行商の花屋さん、いつも独り言をいいながらゴミ
を集めていたお婆さん、野犬狩りのおじさん、大きなこぶのある年齢不詳の男
性・・・あからさまな差別がたくさんありました。けれども、いろんな人がいる
ことが、自然でした。ある意味、おおらかな労働者の町でした。
高校2年の10月16日、最も大きいそして唯一とも言える炭鉱で、ガス爆発
がありました。放課後、部活動をしているときでした。事故の噂が届き、どうや
ら2・3人亡くなったらしいということでした。心配だから電話をかけて来る
と、何人かが公衆電話に走りました。けれども、受話器をあげると、混線を伝え
るアナウンスが響くだけ。結局その日の部活動は、すぐに解散ということにしま
した。ゆっくり家に帰った私は、テレビを見て驚きました。2・3人ではないの
です。93人。地底4000kmには、まだ人がいるらしいということでした。そ
の夜夕張の狭い谷間には、救急車の音が絶えませんでした。
ガス爆発があると、坑道火災が起きます。石炭の中の穴ですから、すぐに燃え
ます。会社は、それを鎮火させるために、坑道への注水を提案しました。社長
は、この炭鉱がだめになるともう会社自体が危ないのだと頭を下げていました。
大声で叫ぶ家族の表情がテレビに大写しになっていました。地底には、まだ人が
います。生きているかもしれません。町中が揺れました。
1週間の後、注水が決定されました。土曜日でした。帰りのホームルームで、
午後1時に注水されるから、そのときは黙祷してほしいと担任が言いました。教
室は、しんとしていました。部室に寄った私は、他の人より遅く、一人で高校の
坂を降りていました。大きな雪が、舞っていました。不意に、谷の向こうからサ
イレンが鳴り始まりました。すると、犬の遠吠えのように、いろいろなサイレン
が鳴り始め、谷中がサイレンの唸るような音と、風に吹かれる雪でいっぱいにな
りました。うかつにも気持ちの準備をしていなかった私は、どきどきしました。
誰もいない坂道で、立ち止まり、目をつぶりました。水の音が、聞こえるようで
した。
今、夕張には、私の通った幼稚園も、小学校も、中学校も、そして高校も、あ
りません。たくさんの人が、仕事を失い、出ていきました。みんな、どうしてい
るんだろうなと思います。坂ばかりで平らなところがなく、川は洗炭のため真っ
黒に汚れ、そして差別に満ちた町でした。でも、人の暮らしが見えた、愛しい町
でした。(愛しい町です。)こんな町で、土屋少年は、本多勝一や小田実などを
読み、外の世界に出ていきたいと考えていました。
そして、夕張からなるべく遠くと思いつつ、雪がないと寂しいからと宮城県に
来て、いつのまにか15年になろうとしています。土屋少年も、おじさんです。
いろんな人に出会わなくてはいけないな:仙台
仙台に来たのは、大学からでした。初めは「障害児」教育に、意欲を燃やして
いました。けれども、「差別」「隔離」そんな印象から、みんな一緒に暮らすほ
うがいいなと考え始めるようになりました。「教育」も、ちょっと疎ましく感じ
ました。
そんな中、大学の講師の先生が、指紋押捺を拒否しました。学内で、誰も応援
しないので、友達と応援することにしました。在日朝鮮人の人の話を聞いて歴史
を学びました。炭鉱での強制連行のことは小学校のときに習っていたのですが、
やっぱり「生」は違うんですよね。やっぱり、いろんな人に出会わなくてはいけ
ないな、と感じました。外国人登録の問題、戸籍という管理制度のことを知りま
した。嫌がらせも受けました。警察が、守ってくれないことも、経験しました。
そんな中、「障害者」の仲間と出会い、赤堀さんの裁判に行ったり、介護を始め
たりして、だんだん大学の外で学ぶようになりました。下北を歩いたり、水俣に
おじゃましたり。いつのまにか「権力」というものを、とても意識するようにな
りました。そして「政治」よりも「暮らし」だなと考え始めるようになりまし
た。
世の中にはいろんな人がいるんだよ、ほら:別姓
どういうわけか、教員になることができました。矛盾の始まりです。いかに自
分が「権力」にならないか。最初は、大変でした。(・・・今も大変ですが。)
別姓にしてからでしょうか、波風の中で自分を主張し始めることができるよう
になったのは。8年前になります。二人暮らしが始まりました。PTAの懇談会
で話しました。
「私事ですが、実は、結婚しまして」
「あら、先生、おめでとうございます(拍手)」
「夫婦別姓なので、留守番電話なんかで、びっくりするかもしれませんが、よ
ろしく」
「・・・・」
そんな会話があったあたりからでしょうか。私は、「世の中にはいろんな人がい
るんだよ」の見本(さきがけ)になろうと意識するようになりました。ほら、こ
の髪もその一つです。
別姓を考える会が、スタートしました。なんだかんだ言っても、「異端」と見
られるのは、なかなか大変です。気も使います。相談しようにも、どこにも行き
場がなくて、大変でした。そんなところでできた別姓を考える会は、ひとりぼっ
ちで不安に思っていた人の格好の止まり木。話を聞くということだけで、こんな
に人は元気になるんだということに驚いたりしました。私は、外国人登録や戸籍
の問題から、婚姻届なんてどうして出さねばならないのだ!と、別姓にしたわけ
ですが、別姓にする動機は人それぞれ。制度や法律以前に、人間関係の問題なの
だなと、勉強させられました。いろいろな人の話を聞くにつけ、いろんな生き方
をどのように許容し、「正義」を押しつけずに、認め合えるかが、大切なのだな
と感じるようになりました。「いろんな生き方あっていい」これが別姓を考える
会の合い言葉です。別姓だけなら、単なる名前の話。でも、その背景や歴史、派
生する問題は、広く深いようです。多くの人に、「そういう人もいるんだね」程
度には、理解してほしいと思っています。
風通しのいい「村」がいいな:これからのこと
夕張の町が、今でも好きです。鍵なんか掛けないで、近所が一緒って雰囲気が
いいんです。何度も訪れた利尻やオホーツク、下北や水俣、福島でも、みんなご
ちゃごちゃと一緒な風景が、素敵だなぁと感じました。おじいちゃんがいて、お
ばあちゃんがいて、あかちゃんがいて、いろんな人がいて、犬が走って、猫がじ
ゃれて、おいしいおしんこを縁側でごっそうになるって感じ。貸し借りあり。
「村」がいいんです。風通しいいのが、いいんです。
けれども、別姓にしようとする女性の話を聞きながら、旧来の「家」制度の閉
鎖性・封建制は、問題だと思うのです。法事のたびに「嫁」としての働きを当然
のように強要されるのは、精神的にも辛いです。彼と結婚したんだよ、彼の家と
結婚したんじゃないんだよという感覚には、大いに頷けます。自分たちが別姓を
選択したいのに、周り(とくに親戚という中距離の人たち)がとやかくと干渉す
る今は、やっぱり変えていかなければなぁと思うのです。
農業は、村みんなで作っていくものなのだから、勝手な行動が許されなかった
のかもしれません。昔からの慣習が、村の平和を築いてきたのかもしれません。
う〜む。慣習に縛られないで、それでいて、ゆっくり風がそよぐ、そんな村は、
できないんでしょうか。一人一人の気持ち(自己決定)を大切にすると、農業は
できないのでしょうか。「嫁」だの「長男」だの「本家」だの、そんな遺物なし
の、個人が個人でふれ合える、そんな「村」って、できないんでしょうか。
さて、私は、あっちこっちで、これからも表現し続けていきます。
夫婦別姓法制化への理解を・婚外子差別をしないで!
子どもの権利条約を生かしていこう・無理に学校に行かなくても大丈夫よ
男らしさ女らしさって、疲れるよ・国境なんて、なければいいのに
よかったら、応援してくださいね。
(1997.11.30.)
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