旧姓使用の特集になっちゃった『別姓通信』47号ですが、考えてみると、「旧 姓」と「通称」と、ごちゃごちゃしていますよね。通称使用の人の多くは、旧姓 を通称として使用しているので、ほとんど同じという感じがしてしまいます。現 段階ですと、別姓を考える会では、「通称使用をしている」というと、@結婚届 を出して、A連れ合いの姓を選択して、B戸籍上は連れ合いの姓を名乗っている けれど、C結婚届を出す以前の自分の姓を名乗っている人、という感じです。で すから「職場で通称を使用している」とか「通称を使えるようにしたい」という 場合、その「通称」のほとんどが、イコール旧姓になっているわけですね。 でも正確には、旧姓=通称ではありません。それは、「旧姓」は戸籍の中に記 載された名前である一方、「通称」は、自分で決めちゃった名前を含むからで す。いわゆる「芸名」がそれに当たります。通称のほうが範囲が広いわけです ね。旧姓じゃない通称というジャンルがあるということを、ちょっと確かめたい 気持ちです。 現民法の中において、「旧姓」を使うことを認めてほしいというという旧姓使 用と比べ、実は「通称使用」はもう少しラディカルです。戸籍名に束縛されない 名前を名乗ること、認められることを、目指すというわけですから。 そもそも、名前とは、どういうものでしょう。自分をどう表現するか、認識さ れるか。名前とは、自分と社会との、最初の接点なのかもしれません。ちなみ に、私の学級(小学校です)では、どの学年を担任したときでも、「自分の呼ば れたい名前」を、最初に宣言するということにしています。呼び捨てもあれば、 「〜ちゃん」から「〜ぴー」まで、様々です。でも、自分で決めた(宣言した) 名前は、尊重され、子ども社会・学校社会の中で生きていきます。大人社会で も、そんなふうにはいかないものなんでしょうか。 随分前から、夫婦別姓の話題が職場なんかで出ると、「新しい名字ができると いいのにね」という話が出てきます。いわゆる第三の姓です。うんうん、そうい うの、あっていいと思いますよ。旧来の姓をT継ぐUという発想から、そろそろ 出たいと、思うわけです。 誰が、私の名前を決めるのか。そんな命題からは、T親孝行Uとか、T恩Uな んて、言葉も出てきそうです。T家族の崩壊を狙うUなんて、言われちゃいそう ですが、もっともっと論議する余地があるなぁと、感じています。みなさんは、 どう考えますか。 (土屋) 先日、裁判で和解した関口さんの判決が出たときの文書が、出てきました。昔 の文書ですが、ちょっと載せておきたくなりました。感想・意見を求めたいで す。(バックナンバー希望の方は、編集部にご連絡ください。) 関口さん、がんばろうね! 〜1994.02.01.発行『別姓通信』17号より〜 関口礼子さんの裁判の判決要旨をワープロで打ちながら、怒りが込み上げてき た。「個人の同一性を識別する機能において戸籍名より優れたものは存在しな い」だって? そうかもしれない。世界各国、日本の戸籍ほど、完壁なまでに個人を管理しき っている登録制度はないだろう。外国籍の人を(たとえ同し地域に暮らし、納税 をしていても)そこから除外してわざわざ外国人登録法を作り、登録管理し、被 登録者には、登録証の常時携帯を義務付け、指紋押捺強制を人権侵害と感してい ないほどの国なのだ。南アフリカの人種差別政策が変わりつつある今日、世界で 一番人種(国籍)差別をしている国=日本、と言えるかもしれない。このT個人 の同一性を識別するUという言葉は、外国人への指紋押捺強制を正当化するため に法務省が言っていた言葉と全く同じだ。そこにはT個人Uという言葉が使われ ていながら、名前を持ち・顔を持ち・感情を持ち・歴史を有するひとり一人のま さにT個人Uの存在などない。登録される対象、その記号、そんな冷たい管理被 管理の関係しかないのだ。 関口礼子さんが「私は、ここにいますよ。私が、私なんですよ」ど言う。けれ ども国そして大学は、その関口礼子さんの声を無視し、もしくはそんな本人の声 を疑い、「いやいや信用ならぬ。個人の同一性を識別する機能において戸籍名よ り優れたものはないのだ」といって戸籍を紐解き、そして「あなたは、○○礼子 だ。なぜならこの戸籍にそう書いてあるのだから」そう言っているのだ。 完壁な登録制度? なぜそんなものが必要だというのだ。ひとり一人の個人へ の信頼の欠落、もしくはひとり一人の個人への際限のない猜疑心とも言えよう か。戸籍制度のなかには、人が暮らしているところに村ができるという発想はな く、人は国家を形成するパーツにしかすぎないという国家のための国家という冷 たいそして誰のためのものなのかを勘ぐってしまうようなシステムしかないの だ。 私は以前、関口礼子さんの裁判について、戸籍名を捨ててしまえばよさそうな ものなのになどと感じていた。ぺ一パー離婚をして、事実婚になれば、それが一 番すっきりするのでは、と。けれども今、その考えは間違っていたように感じて いる。通称使用・すなわち戸籍に登録されていない名前(本名)がまさに本名と して社会的に認められていくことから、戸籍は意味のないものに化していく。 事実婚は、婚姻制度に疑問を投げ、慣習や旧来の文化を変えていく。事実婚 は、そういう力を持っていると思う。けれどもそれは子どもが登場しなければ、 戸籍制度に矛盾しない。戸籍制度のなかで生きてしまう。一方通称使用は、戸籍 制度に矛盾する。戸籍制度に反して暮らす。法的に厳しいというのが現状だが、 今後の展開(自分の名前は、自分で名乗る。登録もしなければ、親と同じ氏を称 しもしない)を考えたとき、法を超えて自分が立脚していく足掛りを、私は通称 使用に見いだすのだ。婚姻制度を少しだけ拡大する通称使用ではなく、戸籍制度 に風穴を開ける通称使用の今後に、展望を見たい。そう考えている。 今回の判決で、どうしようもなく認めがたいのは、‘同氏は夫婦の一体感,と いうくだりだ。別紙の資料(判決文抜粋)にあるが、ここでもう一度繰り返そ う。 法律上保護されるべき重要な社会的基礎を構成する夫婦が、同じ氏を称すること は、主親的には夫婦の一体感を高める場合があることは否定できす、また、客親 的には利害関係を有する第三者に対し夫婦であることを示すことを容易にするも のといえるから、夫婦同氏を定める民法750条は、合理性を有し、何ら憲法に違 反するものではない。(判決文P152) @主親的には夫婦の一体感を高める堺合があることは杏定できない? それはそうだ。そういう人もいるだろう。けれども、そうでない人もいる。そ れはいうまでもなく主観的な問題と言えよう。ゆえに“否定できないが、絶対で もない”ということになる。説得力がない。根拠には成り得ない。 A客親的には利害関係を有する第三者に対し夫婦を示すことを容易にするもの といえる? それはそうだ。現在の法律婚の考え方では、夫婦とは婚姻届を出すことによっ て、配偶者という関係を持ちつつ、同じ戸籍に名前を並べている男女のことをい うのだと思う。逆に考えれぱ、届け出という行為・戸籍という書類・同氏という 状態が夫婦というものを説明しうる全てなのだ。前者二つは、日常的に第三者に 知られうるものではない。だから同氏であることのみが夫婦を示す全てと言える かもしれない。そもそも容易なんかでなくていい。要するに第三者にとって便利 だから、ということ。納得できない。(ここでは事実婚の「夫婦」を「夫婦」と するかは、問わない。) Bさて、こんなことだけで、夫婦同氏を合理的というのは、一体どういうこと だろう。 勘繰ったことを言えば、これは、法制審議会で別姓選択が進みつつあ ることを憂慮した判事たちが、「民法750条は問題ない」という文章(判決文と いう重さ)を出すためだけに出したのではないか。そんなことさえ思ってしま う。まあ、それほどにお粗末というところだ。私は、断してこの判決を納得でき るものとして、取ることはできない。 法制審議会で、別姓選択制を合む民法改正案が検討されている。そのことを私 達は、前進と取る。けれども、私達(ひとりひとりのちがいを認め合いながら、 国家の管理や家制度の呪縛から解き放たれて、生きていく私達)の持つ自由な発 想・豊かなイメージは、忘れるまい。関口礼子さんや全国各地の別姓・婚外子問 題に取り組んでいる人達を始めとする、生きることに一所懸命な仲間と一緒に、 これからも大いにものを言い、考え、行動を、起こしていきたいと思う。(土 屋)